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■■■ 世に死より好色なものはなく凪さまへの捧げもの。 お月さんがゆうらゆら滲んでると思いねぇ。 水中は暗い。宵闇よりも下手すりゃ黒く塗り込められてる。体をしっかりと取り巻いて、飲み込もうとしてるみてぇだ。 だが悪かねえ。 そうだな、言うなりゃ、朔月の……群雲に星も遮られちまってる、薄っすらと輪郭が浮かぶような夜の木陰にねっとりと蹲る闇────に浸って、たゆたってる気分になる。 だが無粋な音が邪魔をする。あぶくがお月さんに向かって泳いでく音だ。こぽこぽ耳障りだと思って、ふと気付いてみりゃ、自分の呼吸だあな。それもありかもしれねえ。 だがオレは静けさに浸かりてぇんだ。 だから息を止める。 最後のあぶくが水面でぱち、ぱちん弾けるかすかな音が聞こえてきて、それで終いだ。 最初冷てぇと思ってた水がぬるんだのか、オレの肌が冷えたのか、肌と水との境目が分からなくなって、蕩けてく。 ゆうらゆうら沈んでいく。 段々お月さんが遠くなって水に溶けてく、こがね色が黒に混じってく。ああ俺も還るのか、なんてふと思った瞬間に、聴こえて来るんだ。 遠くからたぷん、とぷんって大きな拍動がな。 ゆうらゆうら揺れてる。俺が揺れてるんじゃねえ。 水が揺れてるんだ。 そん時オレは懐かしいと思ったよ。暗くて揺れる温かい水の中が。 皮膚の下で、人間の血がどくどく流れてるのがよく分かった。 ああ、間違うんじゃねえ。オレぁ妖怪だ。 だから、「人の血」を殊更に感じるんだろうよ。 人は海から来たんだとさ。 母御の胎内には小さな海があって、そこで揺られて赤さんが生まれてくるんだとよ。 だからオレぁ海が恋しいのかもしれねぇな。 あやかしじゃねえ、人の血が海を恋しがってるんだよう。 鴆が本家をおとなったのは、月が天頂を過ぎた頃合だった。 人間なら不躾と怒るところだろうが、あやかしにとって夜こそが活動域。 酒瓶を引っさげて縁側を進む鴆が、水音に気付いて池に目をやった時、こがねの月を映す水面の向こうに沈むリクオを見た。 ましろの髪を水に遊ばせ、暗い水中に青白い顔を浮かばせて、空を仰ぎ、口元を綻ばせていた。 その時背を滑り落ちた氷のような感覚を、きっとリクオは知らないだろう。 反射的に庭に飛び降り池を覗き込んだ鴆を認めた彼は、細めていた目を見開き、破顔したのだ。 水に預けていた体をゆるりと動かし、腕で一掻き、二掻きして浮かび上がったリクオが口を開いてまず言ったのは「よう、景気悪そうな面ぁしてんな、鴆」であった。 これには鴆も気が抜けた。そもそも水死体のような格好をして、先の短い心臓を思い切り驚かしてくれた張本人がぬけぬけと言うのだから。 「誰の所為だと……まあいい、取り敢えず上がって着替えろ」 「気持ちよく泳いでるってぇのに」 「そりゃ泳いでるとは言わねぇ。沈んでるって言うんだ。傍目にゃ溺れてるのと大差なかった」 苦々しく呟いた鴆にリクオは苦笑して、池の縁に手をかけざばりと水から出た。リクオに場を譲っていたらしい河童に、ありがとなと声をかけることも忘れない。しだれ桜の根元で所在なげにしていた河童は鴆の眼光から逃れんという勢いで池に飛び込んで、水しぶきを跳ね散らかした。 しかしそれを浴びずとも、リクオは所謂濡れ鼠と言うやつで、長い髪から浅葱の着物まで軽く摘めば水がぼたぼた滴り落ちるという有様である。 「……取り敢えず湯浴びて着替えて来い」 見るだけで冷たい風が首筋を撫でて行く心持ちがして、慌てて鴆は首を竦めた。小言も忘れない。 「寒かねぇんだが」 「風邪引かれたら寝覚めが悪ぃだろ」 渋るリクオに酒をちらつかせてどうにか風呂へ追いやり、ようやく鴆は一息ついたのだった。 風呂上りのリクオは白い頬に朱を刷き、やっと生きている風情を取り戻したようであった。 まぁ座りな、と縁側に腰掛ける。なんで水死体みたいな真似してたんだと語気も荒く問いかければ、リクオは微かに笑って水に呼ばれたのだと言った。 「鴆、おめぇは水に沈んだことはあるめぇ」 「当たり前だ、羽にしみちまう」 鴆は嘆息する。鳥のあやかしである自分は、雨に濡れそぼるのも好まない。それを知っていて問うのだから、自分の主も中々に好い性格をしている。 「あの景色を見せてやりてぇが、芯から冷やしたら体にゃ毒だ」 リクオが語る水中の景色を、想像してみて胸が灼けた。 熱いものが気道をせりあがってくる。ああいつもの感覚か、と思うやいなや口から血の塊が飛び出した。 ごほり、と続けて咽る。咄嗟に口を覆った掌、咳が収まって開いてみると鮮血に染まっていた。 「ああ、確かにコレじゃあ無理だ」 リクオが目を輝かせて語る小さな海を、見てみたいと思う。 決して自分は見ることはあるまいと、思うが故に余計に。 リクオは分かってる、と頷いた。同情も哀れみもなく、ただ残念だと言う彼の潔さが鴆は好きだ。 「おめぇはどこへ還るんだろうな」 ふと、リクオが呟く。 「鴆、手ぇ貸しな」 言われたままに差し出した、綺麗な方の手をリクオは違う、と一蹴する。何を考えているのやら、と目を見開いた鴆の目の前で、主は血濡れた手を持ち上げたかと思うと、指を丁寧に開かせ、ぱくりと口に含んだ。 「おま、何やってんだ!」 毒血である。 時には周囲の草木をも枯らす、自分の躯さえも蝕む猛毒である。 それを知らぬリクオではなかろうに。 真っ青になった鴆を面白げに見上げ、リクオはゆるりと笑んだ。 「知りてぇんだよ」 「何がだよ、オレの血は毒だぞ!」 「心配いらねぇ、この程度なら舌が痺れるくれぇだ」 赤い赤い舌でぺろりと血に汚れた口周りをねぶる。 「甘ぇな」 「毒血、だからな」 ああちいと舌が痺れたか。 言って悪びれずに笑う、リクオの顔を鴆は見やる。 「風の音がよく通る」 にやり、と笑う主。今夜は本当にどうにかしてしまったのだろうか。 「今は凪だぜ」 「だからだぁな。おめぇの血が何を呼ぶのか、見てみたかった。 ────風を呼ぶんだなあ」 怜悧な眼差しに似合わぬ無邪気な喜びを見せる彼はなんと。 鴆は息を呑んだ。何やら知らぬ情動が胸を焦がし息が苦しかった。どんな毒の痛みも敵わぬ甘美な痺れが駆け抜けていった。脳髄まで走り抜けた熱はざわり、と肌を粟立たせた。風の音がひょうと聞こえる。凪が。破れて。 笑う彼の口を吸いたいと思ったのは果たして、何が呼んだのだろう。 リクオはただ笑って鴆の腕を受け入れた。 甘さが咥内に残り、じわりと肉を濡らす。水の音が聴こえた。どくどくという音だった。あるいは心の臓が忙しなく肋骨を叩いているのか。 頭の芯が痺れるように熱い。 このままでは何やらあらぬことまで口走ってしまいそうで、鴆は意識を外に向けた。酒を持ってきていたことを思い出した。 「……酒、持って来てんぜ」 「気が利くじゃあねぇか」 「生憎大陸渡りなんて洒落た代物じゃねぇが」 ほっとした。 いつもの空気が戻ってきている。あの訳の分からぬ、血に滾りを与える熱風はきっと通り過ぎただけなのだ。そうきっと旋風のようなもの。 ふ、と鴆は息を吐く。主の目元が微かに緩んだような気がした。思わず視線で射るとリクオは悪戯げな顔で酒瓶を掲げて見せた。 「 「ちげえねぇ」 呑むか、と笑うリクオはやはり凄絶にうつくしかった。 |